徳川義恭の「宗達の水墨画」(その一~)


その一 「宗達の名のある俵屋喜多川家の墓」周辺

https://www.jisyameguri.com/event/cyomyoji/


「伝・俵屋宗達の墓」(頂妙寺)

【第四―二・宗達の名のある俵屋喜多川家の墓―(目次「第四 機屋俵屋と宗達派―二・宗達の名のある俵屋喜多川家の墓―」=『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶版』所収)

p91  頂妙寺といふ寺は現在、京都市左京区二条東に在る。表門を入つて直ぐ右側が墓地になつてゐる。土塀を廻らした少し明る過ぎる墓地で、落着いたいゝ感じは無い。入つて正面に向つて稍幅広い真直の道があり、その両側に沢山の墓石が立つてゐる。喜多川家の其の墓は、右側の中程にあつて、一際高く見えるのがそれである。
 其所には、宗達の名を側面に刻んだ一番大きい立派な墓を中央に、左右に二基の俵屋の墓がある。それから同じ列の右に一つ置いて更に一基、喜多川と記した小さない墓石がある。
 (略)

p92 正面及び右側面は次の通りである。

(右側面)
          宗見 月窓常哲 井狩氏 宗運
          妙法 実月至心     妙種
          妙信 ※※宗達     妙泉
          日道 利慶       慶春
          休興 常林       円清日持  
(正面)
   元祖 宗利  円珠院日登大徳     信受院誠持日妙
      妙慶  大慈院常室日家     ※観心院宗悦日解
          常運院妙法日重 蓮池氏 直性院妙悦日修
南無妙法蓮華経   真性院常由日徳     即順院日利法師
   常興日利   本具院妙常日理 
          信行院常與日勤     常清日空
   妙顕 蓮池氏 修善院妙重日玄     厚智日禪

(略)

P94 この正面の碑文に於て注意すべき事項は、次の如くである。
(一)この一群の人々が喜多川氏の直系であるらしく、而して元祖として蓮池宗利(平右衛門尉秀明)及び妙慶を掲げて居る。又、二祖の妻が蓮池氏としてあり、更に三祖の妻も蓮池氏としてある。即ち、俵屋に蓮池氏と喜多川氏との二家が在つて、蓮池俵屋が恐らく本家で、喜多川俵屋がその分家で、この墓碑にあるのは喜多川俵屋一家であると想像される。
(メモ:墓碑の碑文の読み方は、「上段・中段・下段」の三段に分かれていて、その上段の最初の「元祖 宗利=蓮池宗利(平右衛門尉秀明)」、「妙慶=宗利の妻」、「二祖 常興日利、二祖の妻 妙顕 蓮池氏)」、中段の 「三祖 大慈院常室日家、三祖の妻 常運院妙法日重 蓮池氏」との読みである。)
(二)下段の右から二人目(※)の、観心院宗悦日解は、古画備考に記された喜多川宗悦なる画家であるかも知れない。(略)
(メモ:『古画備考(朝岡興禎著)』中の「俵屋宗達(野々村氏―宗説(喜多川氏北川氏トモ)・・・宗説(二代目宗達ノ事ニテ)」の、この二代目宗達の「宗説」が、この墓碑の「観心院宗悦日解」なのではないかという推論を記述している。)  

P95~p96 次に右側面であるが、遺憾ながら此所に刻まれた人々に就ては、頂妙寺にも喜多川家にも今の所では何等書き記したものは発見できないのである。正面に於ては過去帳に大部分が記されて居り、即面では一人もないと云ふ事は、この側面の一群の人々が、正面の人々とは一応別な立場にあることを物語つてゐる。即ち恐らく同じ喜多川俵屋であり乍ら、正面の一系統の縁者であると見るのが妥当ではなからうか。而して此所にしるされている宗達(※※)といふ人も、墓石に俵屋とあるから、恐らく俵屋宗達であらう。が、果して寛永の俵屋宗達その人であるかどうかは決定は出来ない。(略)

第四―三・頂妙寺に就て― (略)

第四―四・宗達派に於ける俵屋の家号及び野々村・喜多川姓に就て― (略)

第四―五・機屋俵屋に就て― (略)

(メモ: 「蓮池平右衛門尉秀明に始まる俵屋喜多川宗家の系譜」関連のことで、その概略に基づいての、下記のアドレスの記事を、参考までに再掲して置きたい。)

https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/ron/20200612-001.html

【 再掲

宗達の俗姓は蓮池氏、或いは喜多川氏。俵屋という屋号を持つ京都の富裕な町衆の系譜にある絵師で先祖には蓮池平右衛門尉秀明、喜多川宗利などがあった。同人は1539(天文8)年には狩野一門の総帥である狩野元信とともに当時の扇座を代表する座衆であった。また36(天文5)年に生起した天文法乱の敗北によって京都を追われた日蓮法華宗本山が京都に還住が許された際、頂妙寺旧境内地の全てを買い戻して50(天文19)年、亡妻の供養のために頂妙寺に寄進した富裕な日蓮法華衆としても知られる。つまり俵屋は代々絵屋を家職とした一門の屋号であり、宗達はその工房を継承した絵師である。

そして俵屋の商品は宗達の時代、元和年間(1615~24)には俵屋絵、俵屋扇として評判を得ていた。また俵屋一門には絵屋に加えて織屋としての家職もあったようで、西陣の織師たちによって結ばれていた「大舎人座」の座衆として蓮池平右衛門、北川八左衛門などの名が見えるに加えて、彼らの系譜に連なると思われる蓮池平右衛門宗和なる織師の存在も明らかにされている。また01(慶長6)年に立本寺に大灯籠を寄進するとともに鷹ヶ峯光悦町に屋敷を所有した蓮池常有という人物などの記録がみられるも、彼ら相互の関係は不明である。

1946(昭和21)年、美術研究者の徳川義恭氏は当時、俵屋蓮池・喜多川第17代当主である喜多川平朗氏の協力を得て喜多川家伝来の歴代譜、頂妙寺墓所にある俵屋喜多川一門の供養塔の碑銘を調査し、蓮池平右衛門尉秀明に始まる俵屋喜多川宗家の系譜を明らかにされた。自著『宗達の水墨画』においてその調査結果を公表された中で「蓮池俵屋についてはそれを系統的に知り得ず、之が引いては宗達との関係を不明瞭にしているものと思われる」と述べられている。ちなみに現当主、第18代喜多川俵二氏は師父と同様に人間国宝として俵屋の家職を継承し頂妙寺大乗院と結縁されている。

俵屋宗達と本阿弥光悦は義理の兄弟の関係にあり多くの作品を共作していた。加えて宗達が紋屋井関妙持や千家第2代小庵とも茶の湯を介して交流があり、このことからも俵屋一門と本阿弥一門、紋屋一門相互の深い関わりが見てとれる。彼らはいずれも西陣、小川今出川上ル界隈に居住して其々に家職を営んでいた。(「日蓮宗大法寺住職 栗原啓允氏」の見解  】   )

(関連参考メモ)

【 広範で強固な日蓮法華衆のネットワーク

絵画制作の狩野(妙覚寺信徒)、※俵屋(頂妙寺信徒)、※長谷川(本法寺信徒)、彫金の名門※後藤(妙覚寺信徒)、蒔絵師の※五十嵐(本法寺信徒)、西陣織の紋屋井関(妙蓮寺信徒)、銀座支配の大黒屋湯浅(頂妙寺信徒)、茶碗屋の※楽(覚寺信徒)、呉服商の雁金屋※尾形(妙顕寺信徒)、海外交易の※茶屋(本能寺信徒)

能楽の謡曲本を広く刊行した本阿弥光悦(本法寺信徒)、
連歌界を主導した里村紹巴(頂妙寺信徒)、
俳諧の祖ともされる松永貞徳(本圀寺信徒)、
囲碁の家元である本因坊日海(寂光寺第2世)、
将棋の家元としての大橋宗桂(頂妙寺信徒)

「一家一門皆法華」という信仰規範が要請され、信仰、血縁のみならず自身の家職もまた相互に重ね合わせていた。

例えば彫金の後藤一門が制作する三所物などの刀装具の下絵は狩野一門が手掛けていました。京都国立博物館所蔵、重要文化財「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」に至っては、和紙を京唐紙の祖とされる紙屋宗二が漉上げ、その上に俵屋宗達が絵を描き、寛永の三筆を謳われた本阿弥光悦が三十六歌仙の和歌を書き流して制作された作品です。ちなみに紙屋宗二は蓮池常有らとともに鷹ヶ峯、光悦町に移住した熱心な日蓮法華衆であったことが分かっている。

1615(元和元)年に本阿弥光悦が徳川家康から拝領した洛北鷹ヶ峯の地に4カ寺の寺院を中心として、本阿弥始め蓮池、紙屋、尾形、茶屋などの著名な日蓮法華衆の一門が集い、共に信仰生活を送った光悦町は「広範で強固な日蓮法華衆のネットワーク」の具現した姿といえる。 

※ 俵屋(頂妙寺信徒)=俵屋宗達(生没年不詳)
※ 長谷川(本法寺信徒)=長谷川等伯(一五三九~一六一〇)
※ 後藤(妙覚寺信徒)=後藤徳乗(一五五〇~一六三一=京都三長者の一人)
※ 五十嵐(本法寺信徒)=五十嵐久栄(一五九二~一六六〇=光悦の孫妙久の夫)
※ 茶屋(本能寺信徒)=茶屋四郎次郎(?~一六二二)=二代目=京都三長者の一人)
※ 尾形(妙顕寺信徒=尾形宗伯(一五七一~一六三一=「光琳・乾山」の祖父、宗伯の父・道伯の妻は光悦の姉)
※ 楽(妙覚寺信徒)=楽常慶(一五六一~一六三五)=二代目、三代目は道入(のんこう))

】 (同上のアドレスの記事の「要点メモ」など)

その二 「頂妙寺と頂妙寺所蔵の『牛図』」周辺

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A図(現在の「頂妙寺」マップ図=赤の位置表示の所が「頂妙寺」)

 徳川義恭は、終戦後間もない、「昭和廿一年六月」と「同年十二月」に亘って、この頂妙寺などを実地調査し、「従来不明であつた宗達の家柄は恐らく西陣の機屋俵屋一族として認めてはどうか、と云ふ仮説を提示するのである」と、その「第四 機屋俵屋と宗達派」(『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶版』所収)の、その「六 結論」で記述している。
この「第四 機屋俵屋と宗達派」の構成は次のとおりである

一 緒論
二 宗達の名のある俵屋喜多川家の墓
三 頂妙寺に就て
四 宗達派に於ける俵屋の家号及び野々村・喜多川姓に就て
五 機屋俵屋に就て
六 結論

 その結論の、「宗達を祖とする畫派が、現存する機屋俵屋の祖と恐らく関係があつたに違ひないとする」、その「論拠」を次のように要約している(p89~p90)。

(一) 俵屋なる特殊の家号の一致。
(二) 喜多川姓の一致。
(三) 俵屋宗□の一致。(メモ:□=不明文字。二回目の調査で「俵屋宗達」の一致? しかし、この「俵屋宗達」が法橋となった俵屋宗達その人なのかどうかは不明とする。)
(四) 機屋俵屋と頂妙寺、及び頂妙寺の宗達水墨画。(傍系の資料として、頂妙寺と光悦、及び俵屋宗由の貞享四年に献じた一幅の存在)
(五) 蓮池平右衛門尉秀明が加賀の人と伝へられてゐる事と、宗達系の畫家と加賀の関係の密接なる事。(光悦と加賀の関係)、更に広く当時の織物業に於ける京都と加賀の関係。
(六) 時代及び土地の一致(機屋俵屋の成立と宗達の在世時代に矛盾のない事。活動の中心地の京都である事)
(七) 堺の地と機屋俵屋(堺を通しての外国技術の輸入及び商業上の関係と、宗達と堺(俵屋宗雪の書蹟、宗達筆松島図屏風、宗達系の一優品罌粟図屏風)及び(傍系として頂妙寺と堺の関係) 
(八) 宗達畫の内容と富裕なる機屋俵屋との関係、及び、宗達畫の様式と織物模様の様式との合致。

B図の「頂妙寺」付近図:「寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学蔵附属図書館蔵)」
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/libraries/uv-wrapper/uv.php?archive=metadata_manifest&id=RB00000143#?c=0&m=0&s=0&cv=0&xywh=24161%2C14427%2C2750%2C5442&r=270

 この「B図」は、「寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)」の「本阿弥辻子・本法寺・妙蓮寺・妙顕寺」の絵図の、「東・北」側の「院御所」(現在の「厳島神社」付近?)に移動した図で、その「院御所」(後水尾院などの仙洞御所?)の左下側に隣接して「頂妙寺」がある(この「院御所」の右側に「知恩寺」がある。これは浄土宗総本山の「知恩院」ではない)。
 ここで、下記のアドレスによる「頂妙寺寺地の変遷」を掲載して置きたい。

http://youryuboku.blog39.fc2.com/?mode=m&no=200&photo=true

【 頂妙寺寺地の変遷
日蓮宗京都二十一箇本山の一つ頂妙寺は、現在では、鴨川の東、仁王門通に面してある。通り名は当寺の仁王門に由来するという。ここに落ち着くまで、洛中洛外を転々としてきた。
 1473(文明5)年、日祝(日常8世)が上洛し、檀越の武将・細川勝益(?~1502)の篤い帰依によって寺地の寄進を受け、頂妙寺を開山した。当時の寺地は南は四条通、北は錦小路通、西は万里小路(現在の柳馬場通)、東は富小路通に至る地であった。
 その後、1509(永正6)年、10代将軍・足利義稙の命により新町通長者町に移る。ついで、1523年(大永4)年には、12代将軍・足利義晴の命により、高倉中御門に移転し、法華宗洛内法華二十一箇本山の一つになる。中御門通は現在の椹木町筋に当たる。
 1536年(天文5年)の天文法華の乱で、他の法華宗寺院とともに焼失し、堺に避難した。その後1542年(天文11年)、後奈良天皇が法華宗帰洛の綸旨を下し、頂妙寺は1546年、高倉中御門の旧地に伽藍を再建した。
 1573(天正元)年、信長の上京焼打ちにあった。フロイスの1573年5月27日付の書簡のなかに掲げた20ヶ寺の焼失寺院名リストの19番目の「ch?mennji」が頂妙寺のことだと思われる(松田,川崎訳「フロイス 日本史4」p.302、中央公論社、1978)。寺地は鷹司新町に移されたという。
 織田信長の命により、浄土宗と法華宗の間で行われた1579年(天正7年)の安土宗論には頂妙寺から三世日珖が臨んだが破れ、日蓮宗は詫状二通を書かされ、以後の布教を禁じられる。寺地はそのままであったとみられている。
 1584年(天正12年)には豊臣秀吉の命により、布教を許され、愛宕郡田中村に於いて、寺禄21石7斗を附される。1587(天正15)年、秀吉の寺移転計画で、また高倉中御門に移った。
 そして最終的には、江戸時代の1673年(寛文13年)に、禁裏に隣接しているという理由で、現在の地に移転させられ、今の所は落ち着いている。 】

 上記の末尾の方の「1587(天正15)年、秀吉の寺移転計画で、また高倉中御門に移った」というのは、いわゆる、秀吉の「聚楽第(京都新城)」の整備に伴う都市改造で、触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-14

また、「最終的には、江戸時代の1673年(寛文13年)に、禁裏に隣接しているという理由で、現在の地に移転させられ、今の所は落ち着いている」というのは、徳川第五代将軍綱吉の時代で、徳川家康の時代に、光悦らが「洛中から洛外(鷹峯)へ」の移住を強いられたと同じような、「禁裏・院御所」付近の新たなる都市整備に伴うもののようにも解せられる。

C図(現在の「厳島神社」=B図の「院御所?」と現在の頂妙寺)

この図(C図)の上部左側に、「厳島神社」=B図の「院御所?」がある。その左側に「頂妙寺(B図)」があった。この「頂妙寺(B図)」の土地は、上記の「結論」の「論拠」(五)に出てくる「蓮池平右衛門尉秀明」(「俵屋喜多川氏の元祖)が、天文十九年(一五五〇)に寄進したことが明らかにされている(「宗達の水墨画(徳川義恭)」p100~p101)。
 この「頂妙寺」(現在の厳島神社の左に隣接していた)が、1673年(寛文13年)に、禁裏に隣接しているという理由で、この(C図)の右端の下(北側)に移転させられたということになる。
 さて、この「頂妙寺(B図)」に、「俵屋宗達筆・烏丸光広賛『牛図』(双福)」が所蔵されている。その頂妙寺の「霊寶目録」が次のように紹介されている。

【 牛図二幅対 賛、正二位大納言烏丸光広公、畫、宗達。竪三尺一寸四分。幅一尺四寸五分、表具、上下天竺織物、一文字黒地金。  】(「宗達の水墨画(徳川義恭)」p102)。

そして、この「水墨牛図は既に私は正筆と認め、先に雑誌座右寶(創刊号)に述べておいた」(『同書p102』)とし、その解説文などは省略されている。
 ここで、この賛をした「正二位大納言烏丸光広公」の、当時の住居の「烏丸殿」が、このB図の「頂妙寺」の上部(北側)の二軒目と隣近所の位置なのである。

B図の拡大図(「頂妙寺(左下)と烏丸殿(左上)」)

【 烏丸光広  没年:寛永15.7.13(1638.8.22)  生年:天正7(1579)
安土桃山・江戸時代の公卿,歌人。烏丸光宣の子。蔵人頭を経て慶長11(1606)年参議,同14年に左大弁となる。同年,宮廷女房5人と公卿7人の姦淫事件(猪熊事件)に連座して後陽成天皇の勅勘を蒙るが、運よく無罪となり、同16年に後水尾天皇に勅免されて還任。同17年権中納言、元和2(1616)年権大納言となる。細川幽斎に和歌を学び古今を伝授されて二条家流歌学を究め,歌集に『黄葉和歌集』があるほか、俵屋宗達、本阿弥光悦などの文化人や徳川家康、家光と交流があり、江戸往復時の紀行文に『あづまの道の記』『日光山紀行』などがある。西賀茂霊源寺に葬られ、のちに洛西法雲寺に移された。<参考文献>小松茂美『烏丸光広』(伊東正子)  】(出典 朝日日本歴史人物事典)

 この「牛図」(頂妙寺蔵)については、下記のアドレスなどで、次のように触れている。その関係する部分を再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-09(再掲)

【『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編・1972年)』所収「22牛図(俵屋宗達画・烏丸光広賛)二幅・頂妙寺蔵・重要文化財」
【 宗達の水墨画中、屈指の傑作として知られるこの対幅には、烏丸光広(1579~1638)の賛がある。向かって右側の和歌は「身のほどにおもへ世中うしとてもつながぬうしのやすきすがたに(花押)」。また、左幅の漢詩は「僉曰是仁獣、印沙一角牛、縦横心自足、匈菽復何求(花押)」。力量感にあふれる牛の体躯を手慣れたたらし込みの技法によって、じつに躍動的に描いている。】「22牛図(俵屋宗達画・烏丸光広賛)二幅・頂妙寺蔵・重要文化財」の解説

(周辺メモ)
一 この光広の賛の「花押」は二羽の「蝶」のようである。宗達の描く「牛」は、その「蝶」に戯れている。(『俵屋宗達(古田亮著)』など)
二 この光広の賛(和歌)の「身のほどにおもへ世中うしとてもつながぬうしのやすきすがたに(花押)」は、「つながぬうしのやすきすがたに」の「自由」こそ「平安・安らぎ」の象徴か(?)この漢詩の「僉(ミナ)曰是仁獣、印沙一角牛、縦横心自足、匈菽(シュク)復何求(花押)」は、「仁牛→一角牛」→「『仁』カラ『縦横心自足』」スルト『牛』トナル」→「匈菽(シュク)復何求」……という「謎句」仕立てらしい(?)
三 この宗達の落款は「宗達法橋」(三人称の「法橋」)で、この「宗達法橋」の「牛図」に、権大納言の公家中の公家の「光広」が、花押入りの「和歌」(狂歌)と漢詩(「謎句」仕立ての「狂詩」)の賛をしていることに鑑み、「法橋宗達」(一人称)と「宗達法橋」(三人称)との区別に何らかの示唆があるようにも思えてくる。例えば、この「宗達法橋」(三人称)の落款は「宮廷画家・宗達法橋」、「法橋宗達」(一人称)は「町絵師・法橋宗達」との使い分けなどである。  】


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